【BNA最終回感想】リトルウィッチアカデミアにおける変身とは何だったのか

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どうも、エンモラです。年々、アニメを見る本数が減ってしまっています。やばいです。

個人的に引っ掛かる作品が少なくて、最近のアニメは面白いものが少なくなったなと老害的な考えが脳裏によぎりつつも、昔はよかった的なタームに入るのは些か早すぎるので、できる限り抗って生きていきたい所存であります。

視聴本数が減ったのは、自宅のリノベーションと引っ越しで慌ただしかったのが原因の一つではあるので、夏アニメからは徐々に取り戻していきたいところです。ただ、個人的に楽しみにしていた『ひぐらしのなく頃に』と『アサルトリリィ』が延期になってしまったので取り戻せるかは微妙かも……。

春アニメはTRIGGERの新作『BNA ビー・エヌ・エー』(以下、『BNA』)と、麻枝准がOPとEDを手掛けた『球詠』の2本しか見ていないので、もし他におすすめがあればコメント等で教えてもらえると嬉しいです。

さて、本題の『BNA』についてですが、率直な感想としてテーマは『リトルウィッチアカデミア』(以下、『リトアカ』)の反復で基本的には同じことをやっているなあという印象が強かったですね。

まあこれについては「私は変わる、世界を変える。」というキャッチコピーが公開された時点で察していましたし、『BNA』に期待していたのはまさにこの部分でした。ただ、同じことをやるからには、それ以上の何かというか、そこからさらに発展させたものも期待していたのですが、それが見えづらかったというのが正直なところです。

本記事では、【『BNA』最終回感想】と題したものの、『BNA』についての感想というよりも、どちらかというと『BNA』を見たうえで、あらためて『リトアカ』とはどういう作品だったのか振り返るような感じで書いていきたいと思います。

『BNA』は元々変身がテーマだった

これは5話放送前に「TRIGGER BNAスタッフ リモートトーク配信」が行われ、そこで吉成監督が語っていたことなんですけど、「なぜ獣人ものをやろうとしたのか」という質問に対して、「元は獣人じゃなくて変身がテーマだった。『リトアカ』で主人公が頻繁に変身するけどそれをもっと発展させてメインにした作品にできないかという提案を受けてそこから今の形になった」というようなことを語っていたんですね。

『BNA』という企画が発表されたときから吉成監督ということで、『リトアカ』のような作品をまた見たいなあと思っていましたし、冒頭でも書いたようにキャッチコピーが公開されたときに「ああ、同じ方向性でもう一本やるのね」と確信していたからそこに驚きはなかったんです。

ただ、ちゃんと監督の口から狙ってやっていることがわかった以上、比較せざるを得なくて。

結局のところ、ぼくにとって『リトアカ』はTRIGGER作品の中でも特に涙が止まらなくなるほど感情移入した思い入れの強い作品だったというのもあって、それと比べてしまうと『BNA』はぼくの理解不足も加わりどうしても物足りなさを感じてしまいました。

もちろん『BNA』のほうが好きという人もいると思うので、その人がそれぞれの作品をどういうふうに見ているのか、色々意見を聞いてみたいです。

アニメという名の魔法の素晴らしさ

元々『リトアカ』は知っての通り、アニメミライという若手アニメーター育成プロジェクトの一環として作られた作品です。

主人公のアッコをはじめとする魔法学校に通う見習い魔女たちは、これからのアニメを背負っていく若手アニメーターの隠喩になっていて、魔法(=アニメ)は素晴らしいよねと再認識させてくれるつくりになっています。

『リトアカ』はまずこの構造が純粋にすごく美しく、また強い説得力があります。

だから『リトアカ』を見ると、ぼくはキャラクターの背後にいる若手アニメーターたちを幻視してしまうんですよ。

劇場版やTVシリーズでもこの構造は変わらず、基本的にはアニメミライ版の反復になっています。

例えば、アニメミライ版の最後で竜を倒す魔法「シャイニィアルク」でTVシリーズの第一話と最終回もそれで締めていたり、箒に乗ってキャッチするという同じような構図のカットも第三話と最終回で使われており、テーマと合わせてビジュアル面でも反復させています。(最終回はアニメミライ版の反復であると同時にTVシリーズの反復にもなっています)

ただ、それは単なる反復ではなくて、アッコ一人で放った「シャイニィアルク」が最終回ではアッコとダイアナの二人になっていたり、同じキャッチをする構図でもダイアナとアッコの立場が入れ替わっていたりと、反復の中でも変化が加えられています。

アッコの声優の潘めぐみさんがこの部分についてTwitterで触れていたのも記憶に新しいですね。

TVシリーズの後半ではアニメミライ版には登場しなかったクロワというキャラクターが物語を駆動させていくのですが、彼女の現代魔法云々の話もアニメ業界の衰退、そして3DCGか手書きかみたいな話としても機能していて、メタ的にアニメ業界の話になってるという点で一貫しています。

以前劇場版『SHIROBAKO』の感想を書きましたが、

アニメ業界を時にコミカルに、時にシリアスに描いた『SHIROBAKO』と、アニメ業界を魔法が衰退しつつある世界として比喩的に描いた『リトアカ』を比較してみるのも面白いと思っていて、どちらも好きなのですけど、アニメ業界をストレートに描くのもいいですが、きれいに寓話として落とし込んでいるという意味で『リトアカ』は特に好きな作品なんですよ。

「社会」をどこまで、どのように描くべきなのか

『BNA』では白人と黒人の対立をはじめとする人種差別問題を人間と獣人の対立として描いています。

黒人男性が白人警察官の暴行によって死亡した事件をきっかけに人種差別への抗議デモが爆発的に広まっているニュースなどを見て、『BNA』は今まさに現実で起きている問題を扱っていて非常にタイムリーだと感じました。

『プロメア』も類似したテーマを扱っていましたし、『SSSS.GRIDMAN』でも作中にLGBT啓発ポスターが描かれたりと、ここ最近のTRIGGERはこれまで以上に「社会」を強く意識しているように思います。

これは日本国内だけでなく、世界に意識が向いているからなのかもしれませんね。

TRIGGERの肝は「社会」を描きつつ、それをどれだけ最高に頭悪く描けるかみたいなところにあると思ってて(笑)、この部分は『BNA』もいつもどおりといえばいつもどおりで、でも欲を言えばもっと頭悪くしてほしかったです。

また、良くも悪くも社会性が強くて、人によってはそれが作品の魅力になるのだと思いますが、強く押し出しすぎというかストレートに描きすぎていて、個人的にはもう少し寓話性というか比喩性を高めてほしかったというのが正直な感想です。

アニメでここまではっきりと「社会」を描いてほしくないというか、描いてもいいけどそれを強く意識させないようなもののほうが押し付けがましくなくて素直に受け取れる気がするんですよね。

『リトアカ』はそのあたりのバランスがうまかったように思うし、少し違うけれど似たようなテーマを扱った作品では『小林さんちのメイドラゴン』が丁度いい距離感だったと思います。

バランスの良さでいうと、ぼくの好きなアニソンの『片道キャッチボール』もそう。電波ソングなのに実は相互理解の困難性をある種肯定するような結構泣ける歌詞になっていて、ギャップというか、テーマや伝えたいことを何かしらで包み込むというのが何かを伝えるのに欠かせないものなんじゃないかみたいなことを思ったりしました。

多分それが「作品」というものになるのですけれど、社会性の強いメッセージであるほど作品の中でもさらに細かく包む作業が必要なんじゃないかなと思うし、でも細かく包みすぎると今度は伝えたいはずのメッセージが伝わらなくなってしまうだろうからこのあたりのさじ加減は非常に難しいのだと思います。

信じる心が世界を変える

「私は変わる、世界を変える。」

これは前述したとおり、『BNA』のキャッチコピーで、作品を象徴する重要なキーワードです。

何かを変えたいと思ったとき、まず自分が変わるべきなのか、それとも世界を変えていくべきなのか。

同じような問いが某作品にもあるのですが、テロやデモは自分を変えずに世界を変えようとする行為です。

『リトアカ』や『BNA』でもテロやデモは描かれています。しかし、それでは根本的な解決にはならない、世界は変わらないというのがTRIGGERのスタンスなのかもしれないし、現実がそうだからありのままを描いているということなのかもしれません。

だからこそ、まずは自分から変わらなければならないということを描いており、『リトアカ』でも『BNA』でも何かに姿を変える、変身するという要素があります。

『BNA』では人間から獣人に、獣人状態からもたぬきからチーターや鳥になったりします。

もちろんこれはみちる自身の姿かたちだけでなく、物の見方や考え方も含めた“変身”であり、士郎やなずなを含めた「世界」を変えていきます。

ただ、前述したように『BNA』は『リトアカ』から発展させたようなのですが、その発展部分がぼくにはイマイチ理解できず、むしろ“変身”というテーマに関しては『リトアカ』のほうがうまく処理していたように思います。

アッコは最終回まで変身魔法を自分にしか使いませんでした。6話の序盤、アッコは相手の姿を変えようとしても未熟故に自分の姿が変わってしまうのですが、それは今の自分を変えたい、少しでもシャリオに近づきたいという気持ちの強さの表れだったのかもしれません。(6話の最後でそのことを実際に口にする)

例外的に6話中盤で魔法を時代遅れで役に立たないものだと小馬鹿にされ、誤ってアンドリューの姿を変えていますが、それも勿論未熟だったからです。しかし、魔法が素晴らしいということを知ってほしいという思いが形になったのだと思います。魔法の素晴らしさを知ってほしい=魔法が素晴らしいと思えるように変わってほしい みたいな感じで。だからアッコではなくアンドリューが変身したわけです。

そんなアンドリューに自分は自分にしかなれない、けどシャリオがしてくれたように周りに夢を与えることができる(周りを変えることができる)と気付かされ、世界改変魔法を手にする。

けどアッコは気付いていないが自分が変わっていく過程の中ですでに同級生やアンドリューを含めた周りの人々をも変えてきました。周りが変われば世界も変わる。すでに世界を変える力を持っていたのです。

「誰かのために何かを変える」、それはアッコの使える“魔法”であり、篝 敦子というキャラクターの魅力でもあります。

でもそれは決して特別なものではなく、魔法の本質そのものであり、魔法の、魔女のあるべき姿であることをずっと見届けてきたぼくたちは知ってるわけで。(利他的行動云々の7話が特に顕著)

だからこそ、自分だけでなく周りも変えてきて、ついに変身魔法をものにする瞬間は胸を打つものがあったし、結果的に世界を変えるという展開にも強い説得力がありました。

「夢見たものが手に入るんじゃない。一歩ずつ積み重ねたことが手に入るんだ」というセリフもあり、アッコの魔法は、アッコのしてきたことがそのまま魔法へ反映されていて、文字通り積み重ねたことが魔法として表れているんですよね。

周りを変えてきたからこそ、相手の姿も変化させられるようになった。最終回の25話はそういう意味でこれまでのアッコの集大成としても素晴らしかった。(アッコが落ちこぼれだと自覚し、変わりたいと強く決意する回は、変身魔法メタモールフィーフォシエス初登場の6話であることも象徴的でした)

そしてピンチの時に現れた伝説の箒、流星丸もアッコによって変えられた(解放された)一人(?)というのも激アツなわけですが、さらにいえばアッコによって変えられてきたのは作中の登場人物だけでなく、作品という枠を超えた先にいる視聴者であるぼくらも毎週心を動かされてきたのは間違いないですよね。

見たものの心を変える。それはアニメというものが本来持っている魔法。『リトアカ』はそれを徹底的に描いていて、アニメミライからずっと一貫してて全くブレてない。アニメは素晴らしいよねっていうアニメ賛歌としてとてもいい作品だと思うんですよ。

一貫しててブレないという意味では『リトアカ』のアッコも『BNA』のみちるも基本的には同じようなキャラクターとして描かれています。例えば、みちるは強い正義感と高い行動力を持ち続けていて、アッコは幼い頃からの憧れをずっと抱き続けており、ふたりともブレない何かを持ち続けています。しかし、ふたりのように変わらずにいるのはなかなか難しいことですよね。周りに影響されてものの見方や考え方が変わるのは普通のことだし、それが生きるということでもあるのだと思います。影響を受けてものの見方や考え方が変わるのは決して悪いことだけではないはずです。

実際、『リトアカ』でも『BNA』でも変わることと変わらないこと、その両義性が作中で描かれています。

例えば、9話では「勝手に思い込んで突っ走る癖、ちっとも変わってないよね」となずなに言われるし、なずなへの気持ちは変わっていないことも自覚するなど「変わらない」部分を描きつつ、なずなによる偽物の銀狼によってジャッキーをはじめとする貧民街の人々に夢や希望を与えて彼らを変えていることが描かれます(と同時にギザ十に興味を示すなど彼らしさはちっとも変わっていません)。
なずながやったことはまさに『リトアカ』のシャイニーシャリオがやったことと同じなんですよね。

きっとぼくらは日々誰かの影響を受けているし、誰かに影響を与えている。

その上で自分らしいと思える選択をしていくしかない。

そんなようなことを『BNA』を見て感じました。

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