一番好きなアニメは?
こう問われて即答できるアニメファンは果たしてどれくらいいるのだろうか。
ぼくはとてもじゃないが選ぶことなんてできない。
10本でもなかなか難しい。
それでも、ぼくが所謂深夜アニメを観るようになるきっかけとなった『涼宮ハルヒの憂鬱』(以下『憂鬱』)はきっと10本の内には入ると思う。
アニメ『憂鬱』は原作の良さを損なうことなく、さらに原作と比べて時系列シャッフルをはじめとする大胆なアレンジやハルヒダンス、ライブアライブの演奏シーンなどアニメならではの魅力もプラスされ大きなムーブメントを起こした理想のアニメ化作品だった。
とはいえ、あらためて原作を読むともう原作の時点でめちゃくちゃ面白いので、好きな「アニメ」として『憂鬱』を挙げるのは若干迷ってしまうこともある。
もし、思い入れ補正抜きに好きな「アニメ」として『涼宮ハルヒシリーズ』を挙げるのであれば、ぼくは『憂鬱』ではなく『涼宮ハルヒの消失』(以下『消失』)を挙げる。
あえてこのような書き方をするけれど、アニメと原作を比べてどちらが好きかと問われたときに、はっきりとアニメのほうが好きだと思えたのは『消失』だからだ。
アニメは『消失』が特にすごかった。というか原作と結構違う。
いやかなり忠実なんだけど、決定的なところで齟齬をきたしているというか差異が生じている。だがそれがいい。
まあ今回は原作との差異について細かく見ていくわけではなく、古泉がやばいという話とSOS団とは何だったのかという話をしたい。
選ばれなかった者が選ばれた者へ向ける感情
アニメ『消失』でとりわけ注目すべき点は古泉が「羨ましいですね」って言うところだ。原作にはないセリフで、ここが明確に京アニアレンジが入ってるところ(もちろん屋上での「ゆき」のシーンもそうだし、細かく挙げるとキリがないのだが)。
『新世紀エヴァンゲリオン』にも迫るキョンの自問自答シーンもすごかったけど、今回はこの羨ましい発言についてみていきたい。
原作にないこのセリフは最初電車の音でかき消されてほとんど聞こえない。でも元の世界に戻るシーンのフラッシュバックの最後にはっきりと「羨ましいですね」と聞こえてきて、あのとき聞き取れなかったセリフだということがわかる。
さらに「消失古泉」だけでなく、元の世界の古泉もハルヒにずっと看病されていたキョンに対して「あなたを羨ましく思っているだけです」みたいなことを言ってくる。
原作『消失』においては、選ばれなかった者というとまっさきに「消失長門」が思い浮かぶけれど、アニメ『消失』では、元の世界においても古泉一樹という現在進行系で選ばれなかった者がずっと側に居続けるということが強調される。
この記事で言いたいのは、果たして「私はここにいる」と叫んでいたやつは誰だったのかという話なのである。
この選ばれなかった者を取りこぼさない視線こそが京アニの大きな魅力の一つだ。
これは所謂「Kanon問題」みたいなノベルゲーム文脈ともつながってくる話で、ようするに「Kanon問題」というのは、ノベルゲームのヒロインはそのヒロインルートでは救われるけど、別のヒロインルートでは救われていないのではないか、選ばれなかったヒロインについて我々はどう解釈すべきなのかという話です。
ぼくは結構物語の外側にいるキャラクターに思いを馳せがちで、やはりそれはノベルゲームが好きだからなのかもしれないけど、その点においてアニメ『消失』は傑作だった。
ノベルゲームではループとか平行世界とかでその辺をうまくごまかしてきて、その中にはもちろん正面から向き合った作品もあるのだけど、アニメ『消失』も選ばれなかった者への視線をちゃんと描いて痛みを残すっていう真摯な作りになっている。
考えてみれば京アニは主人公がカラスとなって物語の外に追いやられる『AIR』を経て、『Kanon』では誰かが救われると誰かが救われない「Kanon問題」をまさに解消するような物語構造を取り、『CLANNAD』では坂上智代や藤林姉妹といった選ばれなかった者だけでなく、伊吹風子という物語の外側にいるようなキャラクターを執拗に映し出しており、『けいおん!』の中野梓や『中二病でも恋がしたい!』の七宮智音も同様で、徐々に物語の外側、あるいは選ばれなかった者をただ登場させるだけでなく、彼らにカメラをフォーカスすることで彼らのキャラクターとしての単独性や実存性みたいなものを強化し、彼らの存在を掬い上げる(ことでそれが彼らへのある種の救いとなる)ことを実践し続けている。
エンドレスエイトにおける古泉一樹の嘘
実はエンドレスエイトがかなり重要な伏線になっていて、長門の伏線は言わずもがななのだけど、長門だけじゃなくて古泉も伏線になっている。
一見エンドレスエイトのオチって「宿題をすること」だけど、本当はそうではない。
ハルヒ自身が気づいていない、ハルヒの「夏休みの心残り」は「まだ一度もキョンの家に行っていない」ということだった。
実際、ハルヒは妹とゲームで遊んでいて、みんなと宿題なんてやっていないことが描写されており、彼女の心残りはみんなと「宿題をすること」ではなかったことがわかる。
で、ここでのポイントはラストに古泉が嘘をついているということだ。
ハルヒは文武両道優秀で宿題を負担に思うことなく、ましてや夏休みの宿題を友達と一緒にやるという発想なんてなかったのでしょうってそれっぽい解説をするのだけど、『消失』を──まあみなくてもわかるのだけど──みることでこれが嘘だったということがはっきりとわかる。
つまり、ハルヒに選ばれたキョンが羨ましいからその本当の意味を教えなかったということだ。
おそらくラストにポーカーで勝負して古泉が負けてキョンが勝つのもそういう意味を含んでいる。ロイヤルストレートフラッシュはそれぐらい細い勝ち筋というか限りなくゼロに近い確率を潜ってきた結果としてのロイヤルストレートフラッシュだと思うけど、古泉に勝つっていうのはどういうことかって言ったらやっぱりそういうことだろう。
誰かに気づいてもらうための小さな祈り
では「私はここにいる」と叫んでいたやつは古泉だけだったのかというと決して古泉だけではない。
ハルヒや長門はもちろん、朝比奈さんもそう。団員みんながセカイや誰かに向けて「私はここにいる」と心の中で叫んでいるに違いない。
だから“SOS”団なのではないかということにぼくは今更ながらに気づいた。世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団とかいってるけど、色々な事情で孤独を抱えた連中が「私はここにいる」と救いを求めて心の内に文字通りSOSを発信している(補足情報として、『ハルヒシリーズ』は阪神大震災が起こらなかった世界という裏設定がある)。
なぜSOS団という名前なのか、消失について考えてたらなんか自分の中ではすごく得心のいく意味付けができて、まあ同じようなことを考えている人もたくさんいたと思うけど、ちょっとそれを古泉の話と絡めて共有できればなあと思い記事を書いてみた次第。
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